「かけるもの」と「かかるもの」
こんにちは。Ziosです。
秋です。もう、なのかな。
↑去年の今頃は、こんな写真を撮っていました。
実は、少し焦ってます。
ちょっとは「やらんといけんなぁ」と思ってしまっています。
そういうの、あんまり良くない気がするのでなるべく抑えていますが。
ただ、勉強に関して言えば、単に量をこなすだけではいけないと思っています。
演習量が重要ではない、といっているわけではありません。ここでいっているのは、「勉強時間が全てではない」ということです。
勉強は、簡単に言えば「足りない知識を補う」「足りない計算力を補う」など、自らを「補強」する営みだと思います。
一つの計算問題を終わらせるのに1時間かかる人もいれば、20分で終わらせることのできる人もいます。
つまり、先に述べた「勉強時間が全てではない」というのは、こういうことなんです。
かなり厳しい言い分になりますが、「できない人の1時間」と「できる人の20分」は、実質的には等しくなってしまいます。もちろん全く同じではありません。その1時間でできない問題ができるようになるのであれば、無駄ではありません。当たり前ですね。
ただ、「◯時間勉強した」というだけの指標で測ってしまっては、どう考えてもできる人の方が不利です。
私は、勉強にあまり時間を「かけ」たくありません。もちろん勉強はしますが、それはあくまで時間が「かかる」もの。何時間も「かける」ものではないと思います。
勉強をしている過程で、わからないことが発覚し、その問題を解決するのに何時間も「かかる」のであれば致し方がありませんが、「受験生なら◯時間やるのは当たり前」などと、あくまで時間を「かける」ことにこだわるのは、そもそも論点が違います。何時間もかけたところで何も得られないなら無意味です。
少しでも何かを得る、少しでも計算力を上げる、というところに主眼を置かなければ、いくら時間を使っても、伸びることはおろか、「特に意味のない達成感」に慢心させられ、後々ひどい間に合うでしょうね。ここでいうひどい目、というのはご想像にお任せします。
ともかく、勉強しなければいけないのは事実です。
しかし、今、先生方に「◯時間やれ」と言われている人は、「これを覚えるのに◯時間かかるからやれ」という意味なのか、「単に時間だけ」の指示なのかを考えて受け取る必要があります。
という、盛大な言い訳でしたσ(^_^;)
模試はそこまで不調ではないです。事実、マーク模試は余裕を持てる結果でした。
ですが、油断はできない。センターの当日のその日までには、安心出来るだけの得点力をものにしなければいけない。
周りの人全てが、今の時期余裕があるとは限らない。
なので、先生方は際限なくプレッシャーをかけてきます。
それにつられて過度に不安になってしまう私がいます。
つられて、とわかっているだけまだ救われていると思いますが。
いつ、どこにいても不安が消えることはありません。
趣味の模型も、先日のガンキャノンで一時取りやめとしました。
何もかも縛って、点数に変える。
センターで、合格者ボーダーを大幅に超える点を叩き出して、二次で少し欠けても大丈夫なようにする。記述って得点するのが難しいようにできていますからね。
そうすることができると信じて、これからの勉強をしようと思います。
こんな感じなので息抜きもしてますが。
さて、今日はここまで。
また長くなってしまいました…
今この記事を読んでいる方の、受験に関するちょっとしたお話や思ったことがあれば、ぜひコメント欄にお寄せください。
それでは。